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♡ 第三篇|薔荊月 朔日

星香の楼 ―― 誕生日の贈り物

◊今宵、ただ一人のために

セラフィナ誕生日異譚

苺の印を辿り、夜の向こうへいらした方へ。

深紅の衣装をまとい、薔薇と燭火の寝台でこちらを見つめるセラフィナ

今宵、ただ一人のために

扉が閉まると、部屋は静かになった。

セラフィナは繋いだ手に、そっと力を込めた。
ようやく二人きりになれた。

アルディスはまだ、どこか信じられないような顔でこちらを見ている。

「……アルディスさま」
「どうした?」

「あの、お誕生日の贈り物、ありがとうございました」
「気に入ってくれたか?」
「はい。とても」

セラフィナは小卓へ目を向けた。

「実は、着けてきたんです。あちらに……」

黒革の乗馬用手袋が、揃えて置かれている。

アルディスは小卓へ手を伸ばし、手袋を取り上げた。

手首の留め具に、小さな苺のチャームが下がっている。
艶やかな深紅の苺。金色の葉と、小さく散った種が灯りを受けて輝いていた。

「いただいて、すぐに手袋につけたんです。砦からずっと一緒でした」
「……それを着けて、馬に乗ってきたのか」
「はい」

アルディスの指先が、苺の飾りに触れた。

「……そうか」

白檀から温かさが滲む。
彼は手袋を小卓へ戻すと、セラフィナの隣へ腰を下ろした。

「気に入ってもらえてよかった」
「もちろんです。とても可愛らしくて……それに、アルディスさまからいただいたものですから」

「それなら、また何か贈らなければならないな」
「そんな。もう十分です」

セラフィナは首を振った。

「今日、こうしてお会いできたことが、一番嬉しいんです」

アルディスが微笑んだ。
その顔を見た途端、苺香が綻ぶ。

砦を発つときは、驚いてもらえるだろうかと、そればかり考えていた。けれど今は、ただ隣に座ってくれていることが嬉しい。

「……俺もだ」

アルディスの手が頬に触れる。

「まさか、ここでセラフィナに会えるとは思わなかった」
「ふふ。驚いていただけましたね」
「ああ。驚いたどころではない」

「……しゃがみ込んでしまわれたので、少し心配しました」
「それは、忘れてくれ」

困ったように言われて、セラフィナは笑ってしまった。

アルディスの目が、また衣装へ向けられる。
胸元から肩へ、ゆっくりと視線が移った。

褒めてもらえたのだから、もう心配することはないはずなのに。
セラフィナは自分の胸元を見下ろした。

「……あの、アルディスさま」
「何だ?」
「ひとつだけ、残念なことがあって……」
「残念?」

「この衣装、胸で着るものなのだそうです」
「……胸?」

「はい。ナーラが教えてくださったんですけれど……」

セラフィナは前身頃に手を添えた。

「エヴァリエ姉さまやルセリアなら、もっと綺麗に着られたのでしょうね」

アルディスが僅かに眉を寄せる。

「なぜ、二人の名前が出てくる?」
「だって……」

胸元の布を指先で押さえてみる。

「二人とも、わたしよりずっと豊かですもの」
「…………」
「わたしなんて……」

セラフィナは小さく息をついた。

「……ぺたーん、ですから」

アルディスが顔を背けた。

「……アルディスさま?」
「いや」

口元に手を添え、何やら考えている。

「セラフィナ」
「はい」

「大きければいいというものではない」

思いがけず、きっぱりと言われた。

「……そうなのですか?」
「ああ」
「でも、ナーラは胸の膨らみで衣を支えると……」

「それは衣装の都合だろう」
「はい……」

「俺の好みとは関係がない」

セラフィナは瞬きをした。
アルディスは真面目な顔をしている。

「……では、アルディスさまは、これでよろしいのですか?」

「これで、とは?」
「わたしの胸です」

彼が、また口元を押さえた。

「……セラフィナ」
「はい」
「何度も言わせるつもりか」

「……?」
「俺は、セラフィナが綺麗だと言った」

そういえば、そうだった。
あれほど嬉しかった言葉なのに、どうしてまた気にしてしまったのだろう。

「……はい」

セラフィナが頷くと、アルディスはようやく口元から手を下ろした。

「それに……」

彼の視線が、胸元へ移る。

「その衣装も、よく似合っている」
「……ありがとうございます」

ほっとしたところで、ナーラの苦労を思い出した。

「でも、実は少し工夫してあるんです」
「工夫?」

「はい。最初は、屈むと胸元が浮いてしまって……」
「……浮く?」
「ええ。隙間から見えてしまうので、ナーラが紐で留めてくださったんです」

セラフィナは脇へ手を回した。

「ほら、ここに結び目があるでしょう?」

金糸の刺繍に紛れた細い紐。
指先で探ると、小さな結び目が見つかった。

「これを結ぶと、布が身体に沿うようになるんです」
「……なるほど」

アルディスが身を寄せた。
彼の指が、脇の結び目へ伸びる。

「これか?」
「はい。それです」

金の紐を、指先で軽く引かれる。

「……アルディスさま?」
「ずいぶん巧妙に留めてあるな」

「ナーラは、とてもお上手なんです」
「そうだろうな」

結び目を確かめていた指が止まった。

「……セラフィナ」
「はい?」
「これをほどいたら、どうなる?」

「ええと……」

セラフィナは考えた。

「最初の、困った状態に戻ると思います」
「……困った状態?」

「はい。屈むと、胸元が見えてしまうんです」

アルディスが黙った。

「ですから、外さない方がよいのかもしれませんね」

セラフィナが結び目へ手を伸ばすと、その指をアルディスが優しく押さえた。

「……アルディスさま?」

アルディスの指が、再び結び目に触れた。

するり。

小さな結び目が解けた。

「……あっ」

胸元の絹が、ふわりと緩む。
苺が大きく弾け、甘くふくらんだ。
慌てて布を押さえると、アルディスがこちらを見ていた。

「……見えてしまいます」
「誰に?」

「……アルディスさまに」
「それなら、構わないだろう」

あまりに平然と言うので、セラフィナは返す言葉を失った。

「今夜は、俺に見せるために着てくれたのではないのか?」
「……そうですけれど」
「では、もう少し見せてほしい」

そんなふうにお願いされたら、断れるはずがない。
セラフィナは布を押さえていた指を、そっと緩めた。

アルディスの眼差しが、胸元から肩へ移る。

「……そんなに見つめられると、恥ずかしいです」
「困ったな」

まったく困っていない顔で、彼が微笑んだ。

「まだ、見足りない」
「……もう」

俯きかけたところで、アルディスの指が顎に添えられた。

「セラフィナ。会いたかった」

不意に、あんなに聞きたかった言葉をもらってしまった。

「わたしも……会いたかったです」
「来てくれて、ありがとう」

額に唇が触れる。
次に目元、頬へ。

けれど、そこで止まってしまう。

「……アルディスさま」
「何だ?」

「そこでは……」
「そこでは?」

分かっていらっしゃるくせに。
セラフィナは彼の衣を掴み、わずかに引いた。

「……こちらにも、してください」
「喜んで」

ようやく唇が重なった。
一度離れたところで、もう一度。
セラフィナは彼の肩へ腕を回し、離れようとする唇を追いかけた。

「……セラフィナ?」
「あ……」

自分から引き留めてしまったことに気づき、頬が熱くなる。
アルディスが笑った。

「まだ?」
「……はい」
「いくらでも」

苺香があふれる。今度は自分から顔を寄せた。
何度目かの口づけのあと、彼の唇に深紅の色が移っていることに気づいた。

「……あの、紅が」
「ん?」

「アルディスさまの唇に……」

彼は親指で口元をなぞった。

「……拭かないのですか?」
「またつくだろう?」

セラフィナは目を丸くした。

「……意地悪です」
「そうかもしれないな」

少しも悪びれずに、また口づけられた。
やがて、アルディスの指が髪に触れた。

「この簪、外しても?」
「ナーラが、邪魔にならないようにしてくださったんです」
「そうか。それなら安心だな」

彼は手を引こうとした。
セラフィナは、慌ててその手を捕まえた。

「……でも、アルディスさまになら」

彼の目元が和らいだ。

「では、遠慮なく」

細い簪が抜かれ、留められていた髪が肩へ滑り落ちる。
アルディスは簪を小卓に置くと、白金の髪を指で梳いた。

「……綺麗だ」
「また、それを……」

「何度でも言うつもりだが」

そう言って微笑む彼が、ひどく愛おしかった。
セラフィナは、その胸へ頬を寄せた。

「……アルディスさま」
「ん?」

「今夜は、ずっと一緒にいてくださいますか?」
「ああ」

「朝まで?」
「もちろん」

迷いのない返事に、胸が震える。

「今日は、セラフィナの誕生日なのに」
「……はい?」
「俺の方が、贈り物をもらってばかりだ」

セラフィナは首を振った。

「そんなことありません。わたしだって、こんなに嬉しいんですもの」

彼の腕が背中へ回る。
セラフィナは顔を上げた。

「……もうひとつだけ、お願いしてもよいでしょうか」
「ひとつだけ?」

その言い方がおかしくて、思わず笑ってしまう。

「……いくつでも、よろしいのですか?」
「今夜は誕生日だからな」

アルディスの指が、頬を優しく撫でた。

「何を望んでいる?」

ナーラに教わった通り、目を逸らさずに。

「……もっと、口づけてください」

アルディスが、ほんの一瞬だけ息を止めた。

「……ずいぶん嬉しい願いだな」

そう言って笑う彼を、セラフィナは自分から引き寄せた。
唇が重なる。
離れようとすると、今度は彼が追いかけてくる。

「……アルディスさま」
「何だ?」

「……ふふ。何でもありません」

ただ、名前を呼びたかった。

再び抱き寄せられると、背中に柔らかな枕が当たった。

アルディスが顔を離す。

「……セラフィナ。紗を下ろしてもいいか?」

その意味が分からないほど、子どもではなかった。

「……はい」

セラフィナは彼の手を取り、指を絡めた。

「でも、その前に……もう一度だけ」
「さっきから、そればかりだな」

「……だめですか?」
「まさか。俺も同じことを考えていた」

その言葉が嬉しくて、セラフィナは彼の首へ腕を回した。
口づけは、もう一度では終わらなかった。

いつしかアルディスの手が天蓋へ伸びていた。
薄紗が、ゆっくりと下りてくる。
紗の向こうで、部屋の灯りが淡く霞んだ。

「……アルディスさま」
「ん?」
「……大好きです」

すぐ近くで、彼が微笑んだ。

「俺もだ、セラフィナ」

セラフィナはまた、その唇を求めた。

触れ合うたび、アルディスの白檀王香がしっとりとほどけ、苺香がそれに応える。
互いの香が細い糸のように絡み合い、ひとつに編まれてゆく。
ふたつの香が重なって生まれた甘さが、胸の奥まで染み渡っていった。

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深紅の薔薇と燭火に囲まれ、夜の寝台に横たわるセラフィナ